家が紡ぐ物語 いわさきちひろ編 第1回

家が紡ぐ物語 いわさきちひろ編 第1回

棚澤明子

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絵を描くことが大好きだった少女

※トップ画像は、いわさきちひろ バラと少女 1966年

柔らかで淡く、消えてしまいそうなほどに透き通った水彩で描かれる、小さな子どもたち。
どこまでも甘く、はかなく、美しい世界。
その絵があまりにかわいらしいので、私たちはなかなか気が付きません。
いわさきちひろ、という鈴の音のような名前の向こうに、強い意志を持った一人の女性がいたことを。
この国が戦争へと突き進む中で青春時代を過ごし、空襲で全てを焼かれながらも、あどけない子どもたちを描き続けた彼女の怒りと祈りを。
ちひろの手から生み出された子どもたちは、大人の心の奥底までを見透かすようなまなざしで、今も静かにこの世界を見つめ続けています。

戦争に翻弄(ほんろう)されたちひろの青春

いわさきちひろ

▲いわさきちひろ 1973年

いわさきちひろは、1918年12月15日、三人姉妹の長女として福井県武生町(現・越前市)で誕生し、幼少期を東京で過ごしました。

自由で革新的な大正デモクラシーを背景に、陸軍築城部の建築技師の父親と女学校教師の母親が生み出す、豊かで文化的な空気の中で育まれたちひろ。
「ちひろが見当たらないときは、地面に描かれた絵をたどっていくと必ず見つかった」というエピソードが残っているほど、幼き日のちひろは絵を描くことに夢中でした。

まだ小学校に上がる前、この時代を代表する絵雑誌『コドモノクニ』を友達から見せてもらった日の興奮について、ちひろは後々まで語っています。そこに描かれていた大きな満月と美しい月見草の絵が忘れられず、いつか自分もこんな絵を描こう、と夢見たそうです。

14歳になったちひろは、洋画家・岡田三郎助に師事し、絵を学び始めました。すぐに頭角を現し始め、17歳になると朱葉会女子洋画展に入選し、有島生馬や藤田嗣治らそうそうたるメンバーと並んだ記念写真を残しています。

女学校を卒業したちひろは本格的に絵の道へ進むことを望みましたが、両親からの激しい反対によって、断念せざるを得ませんでした。

この時代の女性の幸せは、早く結婚して家庭に入ること。職業婦人であった母親ですら、ちひろには夢の実現よりも、一般的な女性の幸せを切望しました。

そんな中、ちひろに縁談が舞い込みます。
相手の男性からは一方的に恋心を抱かれ、両親からは人並みの結婚を説得され、ちひろは望まぬ相手との結婚を承諾しなければなりませんでした。

1939年、20歳のちひろは、夫の転勤に従って旧満州・大連に渡りました。
しかし、この結婚は衝撃的な結末を迎えます。
少女のようなあどけなさと同時に、かたくなさを持ち合わせていたちひろは、生理的な嫌悪感から徹底的に夫を拒み続けました。
見知らぬ土地で精神的に追い詰められ、あれほど好きだった絵を1枚も描けなくなってしまったちひろ。
2年がたったある日、絶望した夫は自ら命を絶ちました。

生涯消えることのない自責の念を背負って、ちひろが帰国したのは1941年。
折しも太平洋戦争が勃発した年でした。
ちひろの周りの世界は、急速に色合いを変えていきます。
1945年5月には、ちひろが住んでいた中野区の家も空襲に遭いました。
雨のように焼夷(しょうい)弾が降る中、妹と一緒にバケツで家に水をかけるものの火は消えず、ちひろは水をかぶりながら逃げ惑い、九死に一生を得ました。
大切にしていた絵本も、描きためていた絵も、かわいがっていた猫も、全てが一瞬にして燃えてしまった夜でした。

後に、ちひろは次のような言葉を残しています。
「青春時代のあの若々しい希望を何もかもうち砕いてしまう戦争体験があったことが、私の生き方を大きく方向づけているんだと思います。
平和で、豊かで、美しく、可愛いものがほんとうに好きで、そういうものをこわしていこうとする力に限りない憤りを感じます」(いわさきちひろ 1972年)
 

参考資料
『ちひろの昭和』竹迫祐子・ちひろ美術館編著(河出書房新社)
『ちひろさんと過ごした時間 いわさきちひろをよく知る25人の証言』黒柳徹子・高畑勲ほか著 ちひろ美術館監修(新日本出版社)
『文藝別冊 いわさきちひろ総特集』ちひろ美術館監修(河出書房新社)
『ちひろを訪ねる旅』竹迫祐子(新日本出版社)
『いわさきちひろ 知られざる愛の生涯』黒柳徹子・飯沢匡著(講談社)
『妻ちひろの素顔』松本善明著(講談社)
『伝記を読もう いわさきちひろ』松本由理子(あかね書房)

取材協力:ちひろ美術館・東京

所在地:東京都練馬区下石神井4-7-2
開館時間:10:00~17:00(入館は16:30まで)
入館料:大人800円、高校生以下無料
休館日:月曜日(祝休日の場合は開館、翌平日休館)、年末年始 ※2月は冬期休館

公開日:2018年03月23日

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棚澤明子

フランス語翻訳者を経てフリーライターに。ライフスタイルや食、スポーツに関する取材・インタビューなどを中心に、編集・執筆を手がける。“親子で鉄道を楽しもう”というテーマで『子鉄&ママ鉄の電車お出かけガイド』(2011年・枻出版社)、『子鉄&ママ鉄の電車を見よう!電車に乗ろう!』(2016年・プレジデント社)などを出版。TVやラジオ、トークショーに多数出演。ライフワーク的な仕事として、東日本大震災で被災した母親たちの声をまとめた『福島のお母さん、聞かせて、その小さな声を』(2016年・彩流社)を出版。

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