家が紡ぐ物語 樫尾俊雄編 第1回

家が紡ぐ物語 樫尾俊雄編 第1回

棚澤明子

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世界初の小型純電気式計算機「14-A」誕生秘話

※トップ画像は、樫尾俊雄(1925~2012)

仕事で、家庭で、今や私たちの暮らしに欠かせない電卓。
この電卓の原型となる、世界初の「小型純電気式計算機」を世に送り出したのが、カシオ計算機株式会社です。
この耳慣れた“カシオ”という社名も、樫尾家の4人の兄弟たちが力を合わせて創り上げた会社であり、この計算機が誕生するまでに数々のドラマがあったのだと知れば、また違った響きが感じられることでしょう。

後に「樫尾四兄弟」と呼ばれた彼らは、それぞれの個性と才能を生かした分業体制でカシオの礎を築き、その中で、次男の俊雄は発明家として、その一翼を担いました。

現在、樫尾俊雄発明記念館として部分公開されている旧樫尾俊雄邸では、歴史に名を刻んだ数々のヒット商品とともに、ここで暮らし、ここで発明にいそしんだ俊雄の情熱が、いまも生き生きと息づいています。

第1~2回では、発明家として生きた俊雄の人生を振り返り、第3~4回では、樫尾俊雄発明記念館(旧樫尾俊雄邸)を訪れてみることにします。

戦後の焼け跡から始まる樫尾製作所時代

1925年、俊雄は東京都荒川区で4男2女の次男として誕生しました。
幼少時代の俊雄は、部屋の隅に座り込んで考えごとばかりしている子どもだったそうです。
小学生時代にエジソンの伝記を読んでからは、「夢を夢で終わらせず、夢を現実にする。そのロマンを感じたい」(『社内報かしお 樫尾俊雄名誉会長追悼特別号』より)と、発明のとりこになっていきました。

1940年、15歳になった俊雄は逓信省(ていしんしょう)(*1)に入省すると、さっそく革新的な通信システムなどを提案し、すぐに高い評価を得るようになりました。

貧しくとも仲むつまじく暮らしていた樫尾家では、腕の良い旋盤工であった長男・忠雄が、工場を経営し、下請け仕事に精を出していました。

しかし1945年4月の城北大空襲によって、この工場は焼失してしまいます。このとき、落ちていたB29の部品を手に取った忠雄は驚嘆しました。当時のアメリカの技術が日本のそれとは比べものにならないものであることが、部品一つ見れば明白だったのでしょう。

1946年4月、忠雄はさまざまな思いを胸に、自宅の一角の工場を「樫尾製作所」と命名し、会社として立ち上げました。

これが後に世界に知れ渡ることになる、カシオ計算機株式会社の前身です。

逓信省で出世街道を歩み始めていた俊雄でしたが、奮闘する兄の姿を見ると、ためらうことなく逓信省を辞して樫尾製作所に加わりました。
こうして、職人としてピカイチの腕を持つ忠雄と、天性の発明家である俊雄という2人がタッグを組むことになったのです。

1946年、樫尾製作所が最初に世に送り出したのは、たわいのないアイデア商品「指輪パイプ」でした。

指輪パイプのレプリカ

▲指輪パイプのレプリカ。先端部にたばこを挿して使用する。たばこの火が指に当たらないようにパイプの角度を45度にするという工夫がされている

当時のたばこは配給制の貴重品。根元ぎりぎりまで吸いたくても、両切りなので指が黄ばんだり、やけどをしたりとなかなかやっかいなものでした。そこで、「指輪とパイプを合体させたら、楽に根元まで吸える上に、仕事中もたばこを手放さなくてすむじゃないか」と思い付いたのが愛煙家の俊雄でした。

兄弟コンビの第1作となったこの指輪パイプは、売れに売れました。このときの売り上げが、後の計算機開発資金の一部となったそうです。

指輪パイプがヒットした1946年から50年にかけて、復興に沸く日本でしばしば話題にあがったのは、欧米製の電動式計算機。時代の胎動を肌で感じ取っていた俊雄は、計算機にこそ将来性があると確信し、1950年、計算機の開発に着手する決心をしました。

当時、日本で作られていた計算機といえば、手回しで動く機械式。欧米で作られていたものは、電動式とはいえ手回しの部分をモーターで動かすというだけで、実際の計算はやはり機械式。俊雄は「まだ誰も作っていない電気計算機を作ろう」と構想を練り始めます。
既存の概念をベースに考えるのではなく“0から1を生み出す”ことをモットーとする俊雄らしい発想でした。

ここに三男・和雄、四男・幸雄も結集し、樫尾製作所に4兄弟がそろいます。
和雄は、運動神経抜群で明るく活動的、天性の営業マン。
幸雄は、俊雄のアイデアを商品化するために欠かせない、設計のプロです。
「発明は1%のひらめきと、49%の努力と50%の天運だ」という言葉を俊雄は残していますが、この50%とは兄弟に恵まれたことだと語っていたそうです。
ちなみに、カシオの社章はこの4人の結束を表しています。

カシオの社章

▲カシオの社章

1954年、4兄弟は奮闘の末、ソレノイド式計算機(*2)の試作機を完成させました。

しかし、プレゼンテーションに出掛けた先々で、彼らの夢は打ち砕かれます。
掛け算の答えに、さらに別の数を掛け合わせるという連乗の機能が付いていないことが致命的でした。

ソレノイド式計算機を酷評された彼らは、俊雄の提案に従ってリレー式計算機(*3)へと方向転換を図りました。

そして、開発着手から7年を経て小型純電気式計算機「14-A」が完成したのです。全ての計算を電気回路で処理する世界初の計算機であり、現在の電卓の原型となるものでした。

14-Aと樫尾4兄弟

▲14-Aと樫尾4兄弟。左端が俊雄

事務機器商社の太洋セールスと契約を結んだ樫尾製作所は、1956年の年末、札幌にある太洋セールス本社で「14-A」試作機の発表会を行うことになりました。札幌へ出向く俊雄と和雄に、母は貧しい中からやりくりをし、新しいスーツを作って激励します。

華々しい出発でしたが、2人を待っていたのは悲劇でした。

(*1)逓信省(ていしんしょう)
かつて日本にあった郵便、電信、海運などに関する業務を担当していた中央官庁。

(*2)ソレノイド式計算機
スイッチのオン、オフによって回路が作動して計算する仕組みの計算機。オンとオフを切り換える基幹部品に、コイルを巻いた電磁石の一種である「ソレノイド」を用いている。

(*3)リレー式計算機
仕組みはソレノイド式計算機に似ているが、リレー(継電器)という部品が使われている。リレーとは、一つの回路に電流を流したり切ったりすることで、別の回路を走る電流が流れたり切れたりするようになっている部品。

 

参考文献
『樫尾俊雄発明記念館 パンフレット』
『社内報かしお 樫尾俊雄名誉会長追悼特別号』(カシオ計算機)
『計算機の中に宇宙の意思をみた』樫尾俊雄著
『電卓四兄弟 カシオ「創造」の60年』樫尾幸雄、佐々木達也著(中央公論新社)
『兄弟がいて 私の履歴書』樫尾忠雄著(日本経済新聞社)
『考える一族 カシオ四兄弟・先端技術の航跡』内橋克人著(岩波現代文庫)

取材協力:樫尾俊雄発明記念館

所在地:東京都世田谷区成城4-19-10
開館時間:9:30~17:00 入館料:無料
※完全予約制。WEBサイトからの予約が必要。

公開日:2018年05月10日

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棚澤明子

フランス語翻訳者を経てフリーライターに。ライフスタイルや食、スポーツに関する取材・インタビューなどを中心に、編集・執筆を手がける。“親子で鉄道を楽しもう”というテーマで『子鉄&ママ鉄の電車お出かけガイド』(2011年・枻出版社)、『子鉄&ママ鉄の電車を見よう!電車に乗ろう!』(2016年・プレジデント社)などを出版。TVやラジオ、トークショーに多数出演。ライフワーク的な仕事として、東日本大震災で被災した母親たちの声をまとめた『福島のお母さん、聞かせて、その小さな声を』(2016年・彩流社)を出版。

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