家が紡ぐ物語 葛飾北斎編 第2回

家が紡ぐ物語 葛飾北斎編 第2回

棚澤明子

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転居と改名

※トップ画像は、葛飾北斎「冨嶽三十六景 凱風快晴」すみだ北斎美術館蔵

「家」を通して先人たちの生き様を追いかけてきた連載「家が紡ぐ物語」。
今回11人目にして初めてご紹介するのは、“家にまったく執着がなかった”という人。
時は江戸時代、今よりずっと活気にあふれていた東京・下町でひときわ強い輝きを放った絵師・葛飾北斎です。

生涯における転居回数は93回。
かといって、旅に生きたわけでもなく、転居回数で記録を打ち立てようとしていたわけでもなく、ただただ「家」というものに執着がなかったようです。
北斎は、ほとんどの転居を現・墨田区内で繰り返していました。
彼にとっては町そのものが家のようなものだったのかもしれません。
北斎は家だけでなく、一般的にアイデンティティーと見なされる名前も絵のスタイルも次々と変えていきました。
捉えどころのない存在のど真ん中に強靭(きょうじん)な核を持ち続け、日本国内のみならずヨーロッパのアートシーンにも大きなインパクトを与えた北斎。
なぜ彼はこんなにも自由で、エネルギッシュで、才能のままに生きることができたのでしょうか。

その揺るぎない核とは、いったい何だったのでしょうか。
北斎の人生に思いをはせながら、墨田区に残る足跡をたどってみましょう。

93回の転居、30回以上の改号

葛飾北斎

▲葛飾北斎(1760~1849)
溪斎英泉「北斎肖像画」すみだ北斎美術館提供

勝川派を離脱した北斎は、1794(寛政6)年、「俵屋宗理」を名乗りました。
「宗理」とは、桃山時代末期に俵屋宗達、本阿弥光悦らが始めた琳派と呼ばれる様式を目指した一門「俵屋」の頭領が襲名する画号です。
ちなみに、勝川派で描いていた錦絵と、俵屋で求められた狂歌絵本(*)では絵のタッチはまったく別のもの。

今でいえば、同業種内で、毛色の異なる大手から大手へと転職し、転職先でトップの地位に就くようなものでしょうか。

なぜまったく方向性の異なる俵屋へ移ったのかという理由を示す資料は残っていませんが、流派の壁にとらわれず、さまざまな画風を学び、クオリティーの高い絵を描きたいという欲望にのみ従っていたのだろう、と推測されています。

当時の狂歌絵本の挿絵や摺物は富裕層の注文に応じて制作されるのが一般的で、庶民が好んだ浮世絵版画とはひと味違う贅を尽くしたものでした。
このジャンルで数々の名作を残し、第一人者に上り詰めた北斎。

しかし、暮らしは貧乏のどん底でした。

収入は申し分なかった上、衣食住に興味はなく、酒も飲まず、好んだのはそばと甘味程度だったといわれていますが、日常生活での支払いはどんぶり勘定。
支払いが必要な業者が来ると「そこから適当に持っていけ」と部屋の隅に無造作に置いてある小判を指さした、という逸話も残っています。
まさに、絵以外のことは「どうでもよい」のひと言だったのでしょう。
生涯にわたる転居数は、なんと93回。
一般的に江戸の庶民はたびたび引っ越しをしたといわれていますが、それでも93回は異例です。

この転居癖も、北斎の貧乏に拍車を掛けました。
転居を繰り返した理由として、最もよく語られているのは「掃除が嫌いだったので、部屋が散らかると次の部屋へ移った」という説。

ほかにも「身の回りのものを見ては描いていたので、描くものがなくなると引っ越した」という話、「放蕩(ほうとう)者だった孫の尻拭いで借金取りに追われるのが嫌で、逃げ回っていた」など数々の逸話が伝わっていますが、要するに家に対する執着がなかった、ということになりそうです。

1日に3回引っ越したこともあるとのこと、理由はもはや想像すらできません。
93回目で引っ越しをやめた理由としては「入居しようと思った家が昔住んだことのある家で、自分が出て行ったときのまま散らかっていたので嫌になった」のだとか。

常人には理解できない感覚ですが、北斎にとっては絵が全て。
富や名誉はもちろん、最低限の生活を営むことすら、絵を描くことに比べたらまったく無意味でした。

だからこそ、全てのエネルギーを絵のみに注ぎ、思うように才能を開花させることができたのでしょう。

「すみだ北斎美術館」にあるタッチパネル式のモニター

▲「すみだ北斎美術館」にある北斎と「すみだ」とのつながりを見られるタッチパネル式のモニター。北斎が暮らした場所を古地図と合わせて確認することができる

1798(寛政10)年、北斎は「宗理」の画名を門人に譲り、俵屋派から独立しました。
その後は、生涯を通してどの流派にも属さず、いわゆるフリーランスの立場を貫きます。

独立したことを知人に知らせるために、北斎は「亀の図」を描いた摺物を配りました。
そこには「北斎辰政」(ほくさいときまさ)と署名されています。署名の下には「師造化」の文字。

これは、宗理時代から使用していたものですが、自分の師を天地、宇宙、自然の中に見るという気高く壮大な精神を表したもの。

北斎の絵に対する崇高な思いと覚悟が伝わってきます。

「勝川春朗」、「俵屋宗理」、「北斎辰政」とさまざまな名前が出てきましたが、北斎はその後も「百姓八右衛門」「画狂老人卍」など改号を繰り返し、生涯を通して約30の画号を名乗ったといわれています。

名前を門人に譲って礼金をもらうことも目論んでいたとのこと、「迷惑している門人たちもいた」という記録が残っていますが、北斎にとって名前とはその程度のものだったのかもしれません。

(*)和歌を滑稽味豊かに詠んだ短歌である狂歌を載せた絵入りの版本

参考文献
『葛飾北斎 —すみだが生んだ世界の画人—』永田生慈監修(財団法人墨田区文化振興財団 北斎担当発行)
『葛飾北斎伝』飯島虚心(岩波書店)
『葛飾北斎年譜』永田生慈(三彩新社)
『北斎 ある画狂人の生涯』尾崎周道(日本経済新聞出版社)
『伝記を読もう 葛飾北斎』柴田勝茂(あかね書房)
『大江戸パワフル人物伝 葛飾北斎』小和田哲男監修(草土文化)
『コミック版世界の伝記37 葛飾北斎』すみだ北斎美術館監修(ポプラ社)
『東京人 2016年12月号 特集・北斎を歩く』(都市出版)
『和樂 2017年10・11月号 <大特集>天才絵師、北斎のすべて!』(小学館)

取材協力:すみだ北斎美術館

〒130-014 東京都墨田区亀沢2-7-2
・都営地下鉄大江戸線「両国駅」A3出口より徒歩約5分
・JR総武線「両国駅」東口より徒歩約9分
・都営バス・墨田区内循環バス「都営両国駅前停留所」より徒歩約5分
・墨田区内循環バス「すみだ北斎美術館前(津軽家上屋敷跡)停留所」からすぐ
開館時間:9時30分~17時30分(入館は閉館の30分前まで)
休館日:毎週月曜日(月曜日が祝日、または振り替え休日の場合はその翌平日)、年末年始
観覧料金(常設展):一般400円、高校生・大学生・専門学校生・65歳以上300円、未就学児童・小学生・中学生無料

公開日:2018年06月25日

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棚澤明子

フランス語翻訳者を経てフリーライターに。ライフスタイルや食、スポーツに関する取材・インタビューなどを中心に、編集・執筆を手がける。“親子で鉄道を楽しもう”というテーマで『子鉄&ママ鉄の電車お出かけガイド』(2011年・枻出版社)、『子鉄&ママ鉄の電車を見よう!電車に乗ろう!』(2016年・プレジデント社)などを出版。TVやラジオ、トークショーに多数出演。ライフワーク的な仕事として、東日本大震災で被災した母親たちの声をまとめた『福島のお母さん、聞かせて、その小さな声を』(2016年・彩流社)を出版。

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